カテゴリー別アーカイブ: 経緯

フルフォードD.O.の施術ベッド

留学経験によるギフト

当時唯一のオステオパシー専門学院の
JCOに入学した時、
同期は自分も含め3名しかいませんでした。

 

年齢は皆ほぼ同じくらいだったのですが、
他の二人と違っていたのは、
留学経験者だった自分は、
英語が堪能だと思われていたこと。

 

当時、日本ではまだまだ情報が少なく
多くの情報が英語のままでした。

 

またJCOの母団体である協会が
年に何回か海外から著名な講師をお招きして
国際セミナーを開催していたため、
英語が話せる人材は重宝されました。

 

留学経験があったおかげで、
学生の期間である3年間は
毎回、固定のスタッフとして
国際セミナーに参加させてもらえたのです。

 

もちろん、
セミナー中は諸々の仕事があったので、
普通の受講生のようには学べません。

 

しかし、
ワールドクラスのオステオパスの傍で
時間と空間を共有させてもらえたこと、
ソウルを共有させてもらえたこと、
直にコミュニケーションをとれたことが
自分にとってとてつもない財産になりました。

 

彼らが与えてくれた
メッセージや気付きが羅針盤となり、
ぶれて迷っていた自分の方向性を
的確に修正してくれたのです。

 

無駄にしか思えなかった
あの留学体験がなければ、
この財産は決して手に入りませんでした。

 

そして、更なるギフトがありました。

 

敬愛するロバート・フルフォードD.O.
「いのちの輝き」を読んだ頃には
残念ながら既に他界されていました。

 

その晩年のフルフォード夫妻の
主治医をされていた
ザッカリー・コモーD.O.とJCOがつながり、
コモー先生が教鞭をとっている
アメリカのウェストバージニア州の
オステオパシー医科大学であるWVSCOM
West Virginia School of Osteopathic Medicine
とJCOが提携し、海外研修が実現したのです。

 

その海外研修にあたり、
アメリカに住んでいた経験もあったため
半ばコーディネーターとして
事務局とコモー先生との間に入りました。

 

そのおかげで海外研修中、
常にコモー先生の傍で直接話を伺い、
質問することができ、
またコモー先生も通訳を介さず済むので
講義では伝えきれない情報を
後で直接教えてくれたりしたのです。

 

研修中、コモー先生は、
フルフォードD.O.の遺品を所持しており、
実際にフルフォードD.O.が使用していた
施術ベッドを大学に持ってきてくれました。

 

そのサプライズに、僕だけでなく
学生全員が狂喜しました。

 

そして更に、そのベッドで僕をモデルにして
施術のデモを行ってくれたのです。

 

ザッカリー・コモーD.O.

 

基本的に人に憧れたりしない自分が、
ほぼ唯一憧れた人の、
それも本当に自分にとって特別な遺品に
触れさせてもらえたことは、一生忘れません

 

しかもそのベッドで施術してもらえたのは
学生の中で僕だけでした。

 

遠回りで無駄だったとばかり思っていた
留学経験が、思いもしない形で
ギフトとなったのです。

いのちの輝き

念願のオステオパシー…?

アメリカから帰国してすぐ、巣鴨にあった
(当時)日本唯一のオステオパシー専門学院
「Japan College of Osteopathy」
23期生として入学しました。
(現在は西荻窪に移転しました)

 

ロバート・フルフォードD.O.の
「いのちの輝き」を読んでから6年、
念願のオステオパシーをやっと学べる!
待ちに待った瞬間でした。

 

しかし、入学して半年、1年が経っても
フルフォードD.O.が書いていた
エネルギーブロックを触診で見つけだすような
オステオパシーが教えられることは、
残念ながらありませんでした…

 

そしてある日、気付いてしまいました。

 

フルフォードD.O.は
「異端のオステオパス」だったことに。

 

実際、「いのちの輝き」のあとがきにも
そう書かれていました。

 

「異端」なのだから、
正統派の学校で教えられるはずがない訳で。

 

…かなりショックでした。

 

道理で、エネルギーの話をすると
「解剖もロクに知らないくせに
エネルギーとか言ってんな」
「エネルギー系www」と
小馬鹿にされる訳です。

 

なんせ異端ですから。

 

いのちの輝きをきっかけに入学した生徒は
多いはずなのに…

 

とはいえ、
先生や先輩方の言うことも一理あります。

 

なのでまず構造(人体のメカニズム) を
しっかり理解した上で、
エネルギーについては別で学ぼうと
考えていました。

 

しかし…

 

気が付けば自分もすっかり
構造至上主義になっていました。
朱に交われば赤くなるってヤツでしょうか。

 

エネルギーとか、
あまっちょろいこと言ってんな!
といった感じでした。

 

元々現実的な乙女座なので、
目に見えない世界は気にはなっても
確証が得られるまでは
受け入れられなかったのです。

 

そう考えると、
「いのちの輝き」を読んだだけで
アメリカまで行ってしまった自分は
本質の自分と繋がってたなと思います。

 

しばらくは構造至上主義でも大丈夫でした。
教えられている内容は確かなので、
普通に行えば結果は出たのです。

 

なので、正直いい気になっていました。
ある出来事でへし折られるまでは…

 

>> 留学経験によるギフト

California State University, Chioc

留学、自主退学、帰国そして入学

留学機関での準備を終え、
遂に渡米することになりました。

 

留学先はカリフォルニア州の
California State University of Chico
(CSUC)という州立大学で、
専攻はMedical Microbiology
(医療微生物学)でした。

 

どうせ学ぶなら
オステオパシーを補完できるもの、
そう考えての選択でした。

 


休学の期間も含めて約4年の留学期間中に
様々な出来事がありましたが、
敢えてここでは省略します。

 

振り返ってみると、
魂が病んでいく様子がよくわかるので、
自己症例として別枠で記載します。

 

月日は流れ、
2003年の夏休みの終り頃。
留学生活に終止符を打つ、
ある出来事が起こりました。

 

次の学期に受講する講義を
電話の自動音声システムを使って登録し、
学費は総合窓口で払うという手続きを
学期が始まる前に行う必要がありました。

 

この秋学期が終了すれば、
いよいよ州立大学を卒業!の予定でした。

 

しかし…
受講する講義の登録を電話で行ってみると、
どうしても登録できない講義がありました。

 

登録できなかった講義は、
2年に1回しか開講されないけれど
卒業には絶対に必要な講義でした。

 

講義には、毎学期必ず開講されるものと、
1年あるいは2年に1回しか開講されない
レアな講義があり、
しかもレア講義を受けるためには
事前に別の講義を受けておく必要があり、
必然的に受講の順番が決まってしまうのです。

 

そんな制度があったため、
最終学期まで受けられなかった講義が、
登録しようとしたら、できない…
一体どうなってる?

 

総合窓口に行き事情を説明したところ、
受付のお姉さんが
ひどく同情した表情で説明してくれました。

 

その講義は開講が延期になり、
次の開講はいつになるかわからない…と。

 

その2年前の9.11以降、
教育費が大幅に削減された関係で
開講が延期された講義があり、
その中のひとつだという説明でした。

 

頭の中が真っ白になりました。
2年に1回しかない講義がなくなったら、
次の開講は一体いつになるんだ…?

 

とりあえず受講できる分の学費を払い、
そして新学期が始まりました。

 

しかし…徐々に怒りがこみあげてきました。
なぜこのタイミングで?
あともう少しで卒業なのに!

 

卒業が延期されるということは、
オステオパシーが遠ざかるということ。
もう散々待ってきたのに、
これ以上もう待てるかっ!!

 

そしてもうひとつ、卒業が遅れるということは、
シェアハウスから出られないということ。
これも非常に大きなストレスでした。

 

当時シェアハウスに住んでいましたが、
ルームメイトたちの奇行がひどすぎて
今思えばソウルがボロボロでした。

 

今まで喧嘩などしたことない自分が
ルームメイトの胸ぐらを掴んで
殴る直前までいった時、確信しました。
このままだと間違いなく暴力沙汰になる…

 

もう少しでここから抜け出せる!
それだけを心の支えに頑張ってきたのに…

 

正直、心が折れました。

 

もう無理だ!そう思った時、
日本のオステオパシー専門学院である
Japan College of Osotepathy(JCO)
のことを唐突に思い出しました。

 

渡米する前からその存在は知っていて、
一度資料も取り寄せていました。
でも、アメリカで学ぶ気満々だったので
選択肢の中から完全に消えていたのです。

 

捨てずにとっておいた資料をひっぱりだし、
インターネットで調べてみると、
手元に残っていた6年前の資料の内容より
ずっと良くなっている様子でした。

 

その時、9月の第一週で
すでに大学の秋学期は始まっていましたが、
9/23にJCOの入学試験があるとのこと。

 

このタイミング…今しかない!
今まで抑圧していた想いが止まらなくなり、
絶対にこの入学試験に間に合わせる!
と、一気に気持ちが固まりました。

 

すぐに大学の総合窓口に行き
全ての講座をキャンセルし、
(できると思っていませんでしたが)
払い込んだ授業料を全て回収し、
そのまま休学届を提出しました。

 

そしてその日のうちに
飛行機のチケットを予約し、
苦労して購入したバイクを売り払い、
部屋の荷物を全て処分し、
一昨年前の夏休みに居候させてもらった
都内の友人に電話して、
「明後日そっちに行くから」とだけ言って
一方的に押しかけました。

 

宣言通りその二日後に友人宅を訪れ、
事情を説明し、とりあえず入学試験まで
また居候させてもらうことに。

 

入学試験までの間は
物件を探しつつ試験勉強。
やっと少し落ち着いたので実家への報告。

 

親にしてみれば、
後少しなんだから我慢して
卒業だけでもすれば良かったのに、
と思っただろうと思います。

 

でも、そういうことは一切言わず、
自分の選択を尊重してくれたことが
本当にありがたかったです。

 

無事試験もパスし、
23期生としてJCOへの入学が決まりました。

 

オステオパシーを知ってから、
ここに辿り着くまでに
既に6年の歳月が流れていました。

 

一体どれだけ
時間とお金と労力を無駄にしたか…

 

こんなことなら、
最初からJCOに行っていれば…
幾度となく思いました。

 

しかし、人生に無駄なことなんてないと、
後から知ることになります。

 

実際、あの6年があったからこそ、
今の自分があるのは間違いありません。

 

いのちの輝きを読んで即行動した自分に、
そして迷わず帰国を選択し、
行動できた自分に感謝してます。

 

>> 念願のオステオパシー…?

アメリカ

アメリカ行っちゃえば?

東京に戻って先輩に本を返した時、
どこでオステオパシーを学べますか?
と訊ねたところ、
意外な言葉が返ってきました。

 

「日本でも学べなくはないけど、
総本山はアメリカだからねぇ。
庵原くんまだ若いし、
どうせならアメリカ行っちゃえば?

 

アメリカ!?

 

当時三浪して21歳。
年齢的にはともかく、
資金もないし、語学力もない…

 

でも不思議なことに
「そうだ、アメリカに行こう」
あっさり決めてしまいました。

 

勢いって怖いですね。
というか、
完全に「何か」に突き動かされてました

 

オステオパシーの大学は
日本で言う大学院にあたるレベルで、
まず四年制の大学を卒業した上で、
MCATという医学校専門の統一試験を
受験しなければ入学できません。

 

僕の場合、
日本で四年制大学を卒業していないため、
まずアメリカで四年制大学に入学し、
卒業しなければなりませんでした。

 

そして四年制大学に入学するためには
当然ながら語学力が必要になります。

 

そこで、三浪の途中でしたが
日本の大学の受験を辞めて留学機関に入学し、
新聞配達は続けながら
1年間を渡米の準備に充てました。

 

不思議なことに、お金も語学力もなく、
直接体験したこともないのに、
本で読んだ知っただけの
オステオパシーを学ぶことに対し、
一遍の迷いもありませんでした。

 

しかし、当時交際していた彼女が
日本でオステオパシーを学んでいる人に
直接一度話を聞いてみたら?と
至極まっとうなアドバイスをしてくれて、
それもそうだと思い、
たまたま調べて出てきた川崎の治療院に
彼女と一緒に話を聞きに行ってみました。

 

実際に話を伺いデモを見せてもらって、
その方が実践しているのは
僕が目指しているオステオパシーではない
ということははっきりわかりました。

 

でも、なぜかそれでも
全く気持ちは揺らがないどころか、
むしろアメリカで学びたいという気持ちが
はっきりと固まりました

 

> 留学・自主退学・帰国そして入学

聖書

人生を変えた一冊

東京から浜松に向かう新幹線の中で、
帰省直前に先輩に借りた
「いのちの輝き」を読みながら、
ひとりで号泣していました。

 

いのちの輝き

 

「いのちの輝き」で語られている
アメリカ発祥自然医学、オステオパシー
自分が求めていたものはまさにこれだ!

 

心底求めていたものに出会えて魂が震える、
まさにそんな感じでした。

 

そして、
本で読んだだけなのにもかかわらず、
絶対にオステオパシーを習得する、と
新幹線を降りる前に既に決心していました。

 

祖父が亡くなった時、
直前まで何も知らなかったこと、
そして知っていても何もできなかったこと、
いろんなことが悔しくて、
でもだからといって誰も責められず、
結局自分を責めるしかなく、
悔しさで心が潰れそうでした。

 

でも、「いのちの輝き」に出会えた時、
もし祖父の死がなければ、
この本に出会っても
何も受け取れなかったであろうことも
はっきりと理解できました。

 

不思議なことに、この本はいつ読み返しても
その時に必要なメッセージを与えてくれます。

 

「いのちの輝き」は、
今でも僕にとっての聖書です。

 

> アメリカ行っちゃえば?

医療

医療過誤による祖父の死

新聞奨学生を続けながら、
医学部を目指して三浪目の5月のある日、
突然母から電話がかかってきました。

 

母の父、つまり祖父が膵臓癌を患って
入院中だというのです。

 

しばらく前から入院していたのですが、
僕が心配して勉強に影響がでないように
敢えて伏せていたそうです。

 

しかしなぜか急に
伝えないといけないと思い立ち、
電話した、とのことでした。

 

そして明日明後日で
どうこうなるという話でもないので、
心配しないで勉強しなさい、と。

 

確かにショックでしたが、
この時改めて、
医師になる決意を固めたのでした。

 

しかし、その三日後の朝刊の配達中。

 

ブツッという音と共に
靴紐が切れたのです。

 

靴紐って本当に切れるんだ…
まさかね…と思いながら配達から戻ると、
図ったようなタイミングで
母から電話がかかってきました。

 

今朝未明、病院で祖父が亡くなった、と。

 

三日前に電話してきた母は
既に何か感じ取っていたのかもしれません。

 

葬儀に参列した際、
祖父の死の真相を知りました。

 

膵臓癌と聞かされていましたが、
直接の死因は癌ではなかったのです。

 

鎮痛剤として使用された
モルヒネによって意識が混濁し、
夜中に点滴を刺したまま院内を徘徊し、
階段で転落してしまったのです。

 

深夜の出来事だったためか、
病院側も気付かず発見が遅れ、
最終的な死因は失血と肺炎でした。

 

今考えてみれば、
誰が悪い訳でもなかったと思います。

 

しかし、モルヒネを使わなければ、
発見がもっと早ければ、
祖父はまだ死なずに済んだのではないか…
当時はそんな思いが拭えませんでした。

 

特に、その病院では
その前にも身内が癌を誤診され、
それが原因で亡くなっていたので
医療への不信感が更に増しました。

 

そしてこの一件で、
元からの薬嫌いに拍車がかかり、
つい数日前に固めた医師を目指す決意が
一気に崩れてしまいました。

 

これは、
自分が目指しているものではない…

 

しかし、健康に生きるサポートをしたい
という想いはやはり変わらず、
医療以外の道はないのかと模索しました。

 

そんなある日、
カイロプラクティックの専門学校に通う
同じ専売所の新聞奨学生の先輩が、
「庵原くん、この本読んでみなよ」と
一冊の本を貸してくれました。

 

ロバート・フルフォードD.O.という、
アメリカのオステオパス
(オステオパシー医師)によって書かれた、

「いのちの輝き」

それがその本のタイトルでした。

 

カイロプラクティックを学んでいた先輩が
何故オステオパシーを薦めてくれたのか…

 

それは今でも謎ですが、
この本との出会いによって、
僕の人生は大きく変わることになりました。

 

> 人生を変えた一冊

新聞配達

医師をめざす新聞奨学生

高校は文系でした。
国立大学を受験したのですが、
まんまと落ちて浪人することに。

 

最初は宅浪も考えたのですが、
両親の実家があり、自分の出生地でもある
隣町の静岡県浜松市の予備校に通いました。

 

予備校での授業は楽しく
成績もかなりあがったのですが
調子に乗って受験校のレベルをあげたら
またもや受験に失敗し二浪目に突入。

 

流石にもうこれ以上は
親に負担をかけたくなかったので、
実家を出ようと思いました。

 

自力で予備校に通うために
新聞配達をしながら通学できる
新聞奨学生に申し込み、
上京することになりました。

 

東京で新聞奨学生として二浪目を始めて
数カ月たった頃。

 

突如、本当にこのままで良いのだろうか?
何か違う気がする…と
自分の進路に違和感を感じ始めました。

 

それまで文系だったのですが、
そもそも文系を選んだのも
なんとなく古代史が好きだったこと以外は
数学の出来がかなり悪くて
自分は理系向きではないと思ったことや、
3歳違いの兄と小中高も部活も同じで、
兄の後をトレースしているのがなんとなく嫌で、
理系の兄とは違う方を選んだという、
あまりポジティブではない動機からでした。

 

自分は何のために生まれてきたのか?
そもそも生きている意味ってなんだろう?
一日中そんな自問自答を繰り返す日々でした。

 

そして自分なりに辿り着いた答えが、
人は喜びを感じるために生きているのだろう、
ということでした。

 

そこで、自分が喜びを覚えるのは
いつどんな条件だろうと
突き詰めて考えてみると、
困っている誰かをサポートできた時、
格別の喜びを感じることに気付きました。

 

そこでふと思いました。
医師になりたい、と。

 

自分は元々丈夫で健康体でしたが、
私の母は身体が弱く良く寝込んでいました。

 

そんな母に何もできないのが悔しくて、
少なくとも自分の周りにいる人には
苦痛から解放されて
笑顔で自分の好きなことをしててほしい、
そのサポートを行うために
自分は医師になりたい、と思ったのです。

 

そこで急遽、理系に転じ
医学部を目指して勉強を始めました。

 

しかし、高校でも学んでいない科目もあり
半年で間に合うはずもなく…

 

まんまと撃沈し、
三浪目に突入することになりました。

 

しかし今にして思えば、
浪人し新聞奨学生を始めたこと、
そして医学部を目指して三浪したことが
その後の人生の方向性を決定する
非常に重要な要素でした。

 

このうち一つでも欠けたら、
僕の人生は全く別物になっていたはずです。
本当に、人生には無駄なものはない、
そう思います。

 

医療過誤による祖父の死